VRは私たちを旅行から遠ざけるだろうか?:『空間の経験 身体から都市へ』(イーフー・トゥアン著)を読んで

私たちは、私たち自身を取り囲む環境について本当によく知っているだろうか。

例えばなぜ私たちは見知らぬ環境に体を運びたがる(=旅行したがる)のだろうか。

よく出来た映画を観ればその土地については十分知ったかのような気持ちになるし、将来的にはVRなどによってまだ現実にはない空間ですら体験し、知ることができるようになるかもしれない。

しかしそれだけではある環境について(本当の意味で)知るためには十分ではない気もする。

実際に直接訪れることの優位性は、果たしてどこにあるのだろうか。

 

 

このような疑問は長年私の頭を悩ませていたが、イーフー・トゥアンによる『空間の経験 身体から都市へ』を読んである程度それを構造化することができた。

トゥアンによると人間の外的環境は空間と場所という二通りの解釈ができるという。

空間は自由や開放感、場所は安心感や停止の象徴。

空間は場所よりも抽象性を帯びていて、人間の身体によって経験され、価値を与えられることによって場所へと変化する。

 

この経験というパースペクティブはトゥアンが導入した最も重要な概念の一つであり、本著を通底している概念でもある。

 

経験を構成する諸要素は図1のようにまとめられる。

f:id:kogenekos:20170524011407j:plain

図1.経験を構成する諸要素 

(『空間の経験 身体から都市へ』(イーフー・トゥアン著) P24より引用) 

 

まず、経験とは「われわれが現実を知り、その現実に何らかの構造を与える際の様々様式を指す包括的な言葉」として定義される。

その様々な様式は大きく感覚、知覚、概念作用の三つから成る。

感覚は味覚や嗅覚、触覚などによる直接的で受動的なもの。

知覚は視覚などによる能動的なもの。

概念作用は事物を象徴化して捉えるといった間接的なもの。

 

そして、感覚や知覚、概念作用といった諸様式は感情や思考によって強く影響を受ける。

例えば、感覚は思考によってただちにある特別な種類の感覚とみなされるようになる。

思考の結果、暑さは息苦しいものになったり、肌を刺すようなものになったりするし、痛みは鋭いものや鈍いもの、ヒリヒリするものや容赦なく厳しいものになったりするのである。

感じることと考えることは相互に緊密に関係しているのである。

 

感覚や知覚といった言葉からも分かる通り、経験は人間の身体というものを下敷きにしている。

その点で、経験は「身体がある空間を占領することによって為されるもの」とも定義することができる。

 

身体もまたトゥアンの導入した重要な概念の一つである。

人間は尺度となっている身体を持っているからこそ、空間を知り、価値付け、構造化できる。

人間は身体を原点とした三次元座標を導入し、上部の空間には何があるか、前方の空間はどのような空間かを把握するのだ。

物体が近くにある時には、その高さは自分の頭よりどのくらい高いか、あるいは低いか、その重さは自分の身体いくつぶんかなどと考える。

 

このような議論から、経験は「身体にある空間を占領させることによって、その空間に何らかの価値を与え構造かする行為」と再定義することができる。

この定義に則ると、私たちが見知らぬ環境を直接訪れる意味をある程度理解することができる。

文字だけでは、その空間をまなざすことができない。

写真や絵だけでは空間を支配する匂いや音を感覚することができない。

つまり、その空間を本当の意味で経験することはできないのである。

もしその空間の価値を知りたいと思ったら、自分の身体を直接その空間に晒すことは必要なのだ。

 

もっとも、視覚や聴覚だけでなく、触覚や嗅覚、味覚に関わる全ての環境の構成要素を再現できる拡張現実が実装されたのならまた話は異なってくるかもしれないが。

 

 

空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)

空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)

 

 

広告を非表示にする