偶然の価値
道端に咲いた花に目が行く回数が増えた。
出会いと別れの季節が今年もやって来た。
多くの同級生が就職し、どこか遠くへ行ってしまう前に、卒業後二回目となる同窓会を開催した。
同窓会では高校の食堂を使わせて頂いた。
進級会議に被せて、教員の方も気軽に参加できるようにした。
久しぶりの校舎は四年前と全く変わらず、しかしどこかよそよそしい印象を私に抱かせた。
同窓会には百三十人を越える同級生と教員が集まった。
中には前回の同窓会の際に連絡がつかなかった人も含まれていた。
同窓会のためだけにわざわざ帰省してくれた人もいるらしい。
会自体は大きな問題もなく終わった。
同級生の一人が虫を使った創作料理を振る舞ってくれるなど話題に富む出来事もあった。
「この中の何人と再び会うことができるのか。」会の途中、そんな思いが胸をよぎった。
私は普段高校の友達と会うことが少ないので、殊更そういった思いを強く感じたのかもしれない。
今回集まった百三十人という数字はそれだけ見ると大きな数字だが、前回は百九十人以上が集まったことを考えるとその三分の二の数でしかない。
こうして集まれる人数はどんどん減ってしまうのだろう。
海外や地方での勤務が増えてしまえば予定が合うことなど滅多にないだろうし、ひょっとすると事故やテロ、急な病気などによってこの世からいなくなってしまう人も出るかもしれない。
死ぬまで続く友情はあるのか、と高校生の頃はよく考えていた。
私たちは基本的には同じコミュニティ中から友人を選ぶ。
ある意味では、受動的に。
そして、偶然同じ場に居合わせたというだけの友人が、なぜだか自分にとって唯一の存在のように感じられることもある。
しかし、その友情も多くの場合には長く続かない。
コミュニティの変化やほんの些細なきっかけでいとも簡単に消え去ってしまう。
そんな関係を当時の私はどこか虚しく感じていた。
だからこそ、世界のどこかには自分と完璧なまでに相性のいい誰かがいて、その人だけが永遠の友人なのかもしれないと考えることもあった。
同窓会の後、地方勤務に決まった友人と会った。彼は次の月曜には引っ越してしまうらしい。
色々な話をした。
就職してからの話や高校生の頃にしたバカ騒ぎの話。
忘れていた話が沢山あった。
一つ思い出すと次から次へと他も思い出された。
思い出の洪水は当時の考えや感情鮮明に蘇らせた。
それらは今の私にとっては全くもって新鮮だった。
同時に、今の私の生き方や価値観の礎になっているものたちだった。
私はそんな重要なことを忘れていたのだ。
文化祭前日、朝まで準備と練習に勤しんだこと。
行事ごとに大人へ一致団結して立ち向かったこと。
その背景にあった自分の美学。
ただ生まれた年が同じで、ただ選んだ高校が同じだったということ。
偶然にも人生の根幹を成す青春時代を共に過ごしたこと。
それだけで一生の友人になるには十分なのかもしれない。
それだけで数年に一度大勢で集まって、放課後の続きを描く理由には十分なのかもしれない。
そんな風に今なら思える。