臨界点を迎える現代と資本主義の限界
臨界点を迎えつつある現代
経済合理を過剰に追い求めてきた現代社会はもはや臨界点に達しつつある。
日本の金利は史上初のマイナスに設定され、国債に投資すれば必ず資産価値は上昇するという神話は崩れ去った。
国はLong Stagflationと呼ばれる長期的な経済停滞から未だ抜け出せず、景気の良い時代を経験した事の無い世代が中心になりつつある。
今の社会はどのように形成され、そしてどのように変わって行くべきなのであろうか。
かつては一部の支配者階級のみの関心事であったこの問いはいま、深刻なリアリティを伴って僕らに差し迫ってきている。
資本主義の美徳:ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
経済合理性への信仰は禁欲の美徳を失った資本主義が源泉と言えよう。
そもそも資本主義を構成する精神はカルヴァニズムの予定説を端緒とする。
カルヴァニズムにおける神は、人知を超えた絶対的な存在であり、人間の信仰などによって救いの対象を変えたりなどしない。
救われるか否かは人間には全くわからない事象なのである。
そういったある種の絶望とも呼ぶ事の出来る状況の中で人間は如何にして生きるべきか。如何にすれば救われるのか。
どうやっても神の予定を知ることが出来ない人間は自ら「救いの確信」を作り出すことで生に希望を見いだす。
禁欲的生活態度で、本能的快楽を克服し、不必要な消費を禁止する。自己を神の道具として、規律に従って勤勉な「営利機械」として生きる。
本当に神が自分を救ってくれるかなどわからないけれども、救いの確信を得るために勤勉さを以て日々を過ごす。
資本主義の原型はこのようにして始まったのだが、いつしか宗教的色彩を失い、単に生活態度として残るのみとなった。
その結果として現在の能率良い利潤の追求と資本の増大のみを目指す資本主義が誕生した。
ウェーバーによる『プロテスタンティズムと資本主義の精神』の議論を簡単にまとめればこんなところであろう。
資本主義の限界:マルクスの『資本論』
資本主義に対する批判で最も著名なものはマルクスによる『資本論』であろう。
『資本論』ではまず商品の価値の分析から始まる。
商品には使用価値と交換価値の2つの価値が備わっている。
使用価値はその商品がどの程度役に立つか、交換価値は交換する際にどの程度のものと交換出来るかといったことを指す。
マルクスは商品の交換価値は費やされた労働量によって決まるとした。
この考えは労働価値観と呼ばれている。
同時に剰余価値といった概念も導入した。
世の中の人間は生産手段の有無によって2種類の人間に分けられる。資本家と労働者だ。
そして剰余価値とは資本家の利益であり、労働者の労働によって生み出された価値とその対価として労働者に支払われた価値の差分である。
例えば、一時間で1000円分の価値を生み出せる状態で労働者が10時間働き、対価として6000円を受け取った場合、剰余価値は4000円となる。
資本家は当然この剰余価値を増やす方向に自己の行動を決定する。
剰余価値を増やすには何を行えばいいのか。
1つには絶対剰余価値、もう1つには相対剰余価値を増やす事である。
労働時間の拡大は前者にあたり、賃金の引き下げや生産性の向上は後者に当たる。
絶対剰余価値の増加には限りがあるのだから、必然的に資本家は相対剰余価値を増加させるために努力=投資をするのだ。
ここまでの議論を整理すれば、
投資→生産性の向上→商品価値の下落→労働者の生活費縮小→給料の引き下げ→資本家の利益拡大→投資
といった図式にまとめられる。
資本主義経済では資本家に富が集中し、労働者は貧困に苦しむというわけである。
巨大資本家は、こうしてその数を減らしながら、この変容過程がもたらす一切の利益を奪い去り、独占していくことになるが、それと同時に巨大な貧困が激しさを増す。
資本制的私的所有の弔いを告げる鐘がなる
と締めくくられている。労働者たちによる革命が訪れるのだ。
このように19世紀には既に資本主義の誤謬は指摘されていたのである。
経済合理性を超えて
私はマルクス主義や社会主義・共産主義を支持しているのでは無い。
しかし同時に、自由資本主義を支持しているわけでは無い。
二値論理は卒業しなければならない。
資本主義というテーゼとマルクス主義というアンチテーゼの対立する構造を超えて、ジンテーゼを生み出さなければならない。
勿論容易い事ではない。不可能な事かもしれない。
しかし、資本主義の虚構が顕在化している今、我々が生き残る道はそれしかないのだ。